【HATA】岸岳城の短刀ミステリー|なぜそこにあったのか?

HATA|波多氏の歴史
波多氏を初めて知る方は
岸岳城主・波多氏とは?——初めて知る人のための入門ガイド

子どもの頃に聞いた、昔話があります。
城と領地を失ったある城の話でした。

「昔、岸岳城というお城があった。
豊臣秀吉に取り上げられてしまったお城だ。
秀吉が朝鮮出兵のために九州に立ち寄ったとき、
城主の妻も、もてなしの舞を舞うことになった。
舞の最中、護身用に持っていた短刀が懐から落ちてしまった。
岸岳城主・波多三河守が秀吉暗殺を企てていたと疑われ、
その結果、城も領地も、すべて取り上げられてしまった。」

当時の私は、子どもながらにこう思いました。
「誤解なのに、ついてないな。
家ごと取り上げなくてもいいのに。」

その話は昔話として、どこか遠い出来事のように聞き流していました。


岸岳城のことが気になり始めたきっかけはこちら
→<岸岳城は”呪いの城”?私が抱いた違和感】>


物語には、続きがあった

その短刀は、少し前まで唐津城に展示されていた。

最近になって知った事実です。

この地は、支配する城も、城主も
完全に入れ替わった土地です。

何百年もの間、この地を治めていた岸岳城は廃城となり、
新たな城が築かれました。

名護屋城、その後唐津城。

激動の時代を経て__

処分された一族ゆかりの短刀が、残っていた。

つまりこの短刀は、何百年もの間、
誰かが守り続けていたということになります。

短刀を守ったのは、誰なのか

考えられる可能性を、2つ挙げてみます。

支配側で保管されていたのか

岸岳城の後、この地は豊臣政権の管理下に入ります。

秀吉は朝鮮出兵の拠点として名護屋城を築き、
その後、寺沢広正が唐津城を治めることになります。

城主が変わり、城そのものも変わった。

それでもこの短刀は、どこかで保管され続け、
唐津城へと伝わっていったのかもしれません。

しかし__

暗殺未遂と疑われたような短刀を、
あえて残す必要があったのでしょうか。

通常であれば、処分されてもおかしくありません。
それでも消えることなく残された。

調べていくと、波多氏ゆかりの寺に、
初代唐津城主・寺沢広正が一時的に埋葬されていたという記録もありました。

敵対関係ではなかった可能性も、頭をよぎります。

波多側で受け継がれてきたのか

処分されたあとも、すべてが失われたわけではなく、
一部は残され、守られてきた可能性もあります。

城を失い、領地を失った一族が
それでも、手放さなかったものがあったとしたら。

この短刀も、”忘れられないように”
次の世代へ渡されてきたものかもしれません。

ただ__ここでまた疑問が生まれます。

この短刀が一族を追われるきっかけになったとしたら、
なぜ大切に守るのか。

不吉なものとして捨てることもできたはずです。

それでも残したとしたら、この短刀には別の意味があったのかもしれません。

謎は、さらに深くなります。

短刀のミステリー

その短刀は、今はもう展示されていません。

短刀の話は、昔話として語り継がれてきた。
そして短刀そのものも、唐津城に残っていた。

そもそもこの昔話は、作られた話かもしれません。

それとも——

無念にも消された者たちが、何かを伝えるために、
この物語を残したのでしょうか。

謎のままです。

次回はこちら
岸岳城はその土地の心臓だった。

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