
| 波多氏を初めて知る方はこちら ▶岸岳城主・波多氏とは?——初めて知る人のための入門ガイド |
岸岳城主・波多一族の菩提寺、瑞巌寺跡。
| 波多氏とは、中世から戦国時代にかけて、現在の佐賀県唐津市北波多にある岸岳城を本拠とした一族です。 上松浦党の領袖として約450年、17代にわたり九州西部を治め、水軍を率いて玄界灘の海と陸の両方で活躍しました。 しかし文禄3年(1594年)、豊臣秀吉により突然改易されました。 改易とは、領地や城、武士としての地位を取り上げられることをいいます。 |
ここ瑞巌寺跡には、波多氏突然の改易後、主君を追って多くの家臣たちが自害したという伝承があります。
「旗本百人腹切り」
ただ、後世に作られた話かもしれないという記事も見かけました。
私は実際に現地へ行き、自分の目で確かめることにしました。
瑞巌寺石塔群へ行ってみた
旗本百人腹切りの伝承がある場所は、瑞巌寺石塔群と呼ばれています。
瑞巌寺跡の駐車場に着いても、最初は森しか見えませんが、
参道は、その森へ向かって進む方向です。
参道を進むと左側に円山(まるやま)という小山があり、
その小山を少し登ったところに瑞巌寺石塔群があります。
入り口には「旗本百人腹切り場所へ 波多三河守遥拝塔」と書かれた看板と、
武士の石像が立っています。

お寺なのに、お地蔵様でも仏像でもなく武士の石像が迎えてくれる。
戦乱の時代を生き抜いた波多一族らしい出迎えだと感じました。
私たちは、本堂方面から聞こえてくる誰かが木片をたたいているような不思議な音を聞きながら、円山を登っていきました。
| 木片の音が気になる方は ▶森の奥に残る岸岳城主・波多氏の菩提寺 ― 瑞巌寺跡 |
瑞巌寺石塔群の前で
石塔群の看板には、
「主君に殉じたものを付近一帯からここに集めた」
というようなことが書かれていました。

たくさんの石塔が、静かな森の中に整然と並んでいます。
その傍らには花やお酒も供えられていました。
今もここへ手を合わせに来る人がいる。
忘れられていなかった。
少しホッとしました。
彼らは、どれほど無念だっただろう。
私は石塔群の前で、しばらくの間深く頭を下げました。
矛盾した改易理由
なぜ家臣たちは、主君の後を追うほど絶望したのでしょうか。
文禄3年(1594年)
朝鮮出兵の凱旋から戻った波多氏達を待っていたのは、身に覚えのない罪状でした。
船から降りることも許されず、申し開きも許されぬまま主君は関東へ流罪となります。
波多八幡神社の由緒にも「矛盾した改易理由」と記されています。
突然すべてを奪われた主君。
そして、その主君を支えてきた家臣たち。
彼らにとって、それは到底納得できる終わりではなかったのでしょう。
瑞巌寺石塔群の奥にあった遥拝塔
石塔群のさらに奥。
少し登ったところに波多三河守の遥拝塔がありました。

この記事でいう波多三河守は、17代当主・波多三河守親(はたみかわのかみちかし)のことです。
遥拝塔とは、遠くから手を合わせるために建てられた塔です。
岸岳城を背にすると、その方向に遥拝塔があります。
どこからでも拝めるようにしたのでしょうか。
生き残った人たちへの配慮だったのかもしれません。
私は遥拝塔に手を合わせながら、当時を偲びました。
帰宅後に感じた違和感
今回は、本堂への道が荒れていて、本堂へのお参りは断念しました。
それもあってか、帰宅しても瑞巌寺のことが頭から離れませんでした。
そんな時、ふと思ったのです。
本堂が近くにあるのに、なぜ遥拝塔は本堂側ではなく本堂とは反対側の、
石塔群のさらに奥の森の中にあるのだろう。
何か意味があるのではないか。
気になった私は、岸岳城、本堂、石塔群、遥拝塔の位置関係を調べてみました。
そして思わず声が出ました。
| 岸岳城 ▲ 波多三河守 (遥拝塔) ▲ 家臣たち (石塔群) ▲ 瑞巌寺本堂 ※模式図 ※実際の距離・方角とは異なります |
「えっ、まさか?」
家臣たちは死してなお主君に忠義を尽くしているのかもしれない
岸岳城。
波多三河守の遥拝塔。
そして、その少し下に並ぶ家臣たちの石塔群。
それはまるで、

岸岳城を背に立つ主君。
その前に、一歩下がって集う家臣たち。
私にはそんな立ち位置に見えて仕方がありません。
生き残った人々は、亡くなった仲間たちの石塔を
この場所へ集めたと伝えられています。
本堂の存在を知らなかったはずはありません。
それでも、この場所だった。
これは再興を悲願した家臣たちの忠義なのではないでしょうか。
旗本百人腹切りは作り話だったのか
旗本百人腹切りの伝承が本当なのか確かめたくて瑞巌寺を訪れました。
結局のところ、百人がこの場所で一斉に自害したと断言できる資料は見つかりませんでした。
しかし『岸岳城盛衰記』には、
城や瑞巌寺跡、茶園の平などで殉死したり切腹したりした家臣たちのことが記されています。
主君を失い、自ら命を絶った者。
流浪の末に力尽きた者。
再興を悲願として亡くなった者。
場所は一つではなかったのかもしれません。
けれど、家臣たちの悲劇そのものは作り話ではなかった。
私は瑞巌寺跡に集められた石塔群の前に立ち、そう感じました。
そしてこの地に来ることで、もう一つの疑問に出会いました。
なぜ生き残った人々は、亡くなった仲間たちをあの場所、
つまり遥拝塔より少し下がったところへ集めたのか。
あるいは、すでにあった石塔群の上にあえて遥拝塔を建てたのかもしれない。
いずれにせよ、私には岸岳城を背に立つ主君と、その前に一歩下がって集う家臣たちの姿が見えるのです。
死してなお主君に忠義を尽くし、再興の日を待ち続けるかのように。
生き残った人々が、なぜこの場所を選んだのか。
それは供養だけではなかったのかもしれません。
私には、そう思えてなりませんでした。
| 波多氏や岸岳城、そして松浦党について調べる中で見えてきたことをシリーズとしてまとめています。▶【HATA|波多氏の歴史】シリーズ |
※参考文献『岸岳城盛衰記』

