
| 波多氏を初めて知る方はこちら ▶岸岳城主・波多氏とは?——初めて知る人のための入門ガイド |
波多氏の菩提寺・瑞巌寺跡を、どうしても訪ねてみたくなりました。
菩提寺とは、先祖代々の霊を供養する寺のことです。
瑞巌寺は、17代450年にわたって続いた岸岳城の波多一族、そしてその武将たちが眠る場所です。
日本を全力で守り続けた人々が眠る寺は、どんな空気をまとっているのだろう。
| 波多氏や岸岳城、そして松浦党について調べる中で見えてきたことをシリーズとしてまとめています。▶【HATA|波多氏の歴史】シリーズ |
お礼を伝えたい、お参りしたい。
そして、その空気を自分の肌で感じたい。
私たちは長老を連れて、車を走らせました。
Googleアースではたどり着けないかも
地元の人にそう言われ、少し不安になりながら向かいました。
ところがナビ通りに進むと、わりとあっさり「瑞巌寺跡」という看板と駐車場らしき広場が現れました。
山奥でもなく、通りから少し入っただけの場所です。
「あれ、意外と簡単についた」
たどり着けるか心配していた私は、ほっとしました。
でも、その先には森しかない
駐車場の先に見えるのは、鬱蒼とした森と林だけ。
寺跡といっても、看板しか残っていないのかな。
森の中へ進んでみるか。でも、少し怖いな。
瑞巌寺には、改易後の家臣たちにまつわる百人腹切りの伝承が残されており、
その影響から心霊スポットと呼ばれることもあります。
改易とは、領地や家臣団をすべて取り上げられる、武家にとってとても重い処分のこと。
波多氏は豊臣秀吉による改易によって、一夜にしてすべてを失いました。
怖い気持ちはある。
でも、せっかくここまで来て看板だけ見て帰るのは惜しい。
思い切って、森の奥へ進みました。
石塔、そして小堂へ

しばらく歩くと、石塔群が姿を現しました。
そしてその奥に、小さなお堂がありました。
小堂には、少し古い新聞記事が貼られていて、

そこには以下のような内容が書かれていました。
| 瑞巌寺は、七堂華麗を極めた。 波多氏の改易後は没落。 領地は没収され、瑞巌寺は廃寺となった。 しかし歴代の位牌を隠し逃れた家臣・岩崎時左衛門が、 後年本堂の下段に小堂を建てて主家の菩提を弔った。 |
かつて七堂華麗を極めた大寺院が、廃寺となり領地もすべて失われた。そんな中でひとりの家臣が位牌を守り続け、小堂を建てて弔い続けた——ということです。
七堂華麗とは、山門・仏殿・法堂・僧堂・庫裏・浴室・東司という7つの建物が揃った、格式ある大寺院の姿のこと。

そのすべてが整っていたということは、瑞巌寺がいかに大きく、
いかに栄えていたかを物語っています。
読みながら、胸が熱くなりました。
岩崎時左衛門氏は、どんな想いでそうしたのだろう。
今の感覚では、正直なところ、その気持ちをうまく想像することができません。
あの時代の主君と家臣の絆は、私たちの知っている人間関係とは、
何かが根本的に違ったのだろうことは推測できますが。
私も、この歴史を消してはいけないと思いブログを書き始めました。
本気だし、勇気もいる。
でも比べ物にならないな。というか、比べること自体が恥ずかしいと感じました。
時代も、立場も、覚悟の重さも、何もかもが違いすぎる。
ただ、岩崎時左衛門氏がいなければ、今ここに残るものは何もなかった。
本当に感謝しかありません。
波多八幡神社の由緒にも、こんな内容の言葉がありました。
「矛盾した改易理由。
先祖が生きた道を、その精神を、その志を、絶やすことなく伝え続けたいと強く願う」
改易によって寺も神社も、そして人々の暮らしまで奪われた。
それでも守ろうとした人がいた。
私がこの歴史を発信し続けたいと思う理由が、またひとつ深くなった気がしました。
二度も聞こえてきた不思議な音

森の奥へ進もうと歩き始めたとき、右側の小山に近づいたあたりで、
上の方から木の板をたたくような音がしばらく聞こえてきました。
「何の音だろうね」
同行者みんなで顔を見合わせました。
風が何かに当たっているのかもしれない。
その音はしばらく続いた後、やむともなくやみました。
小堂へのお参りを済ませ、旗本百人腹切り場所へ向かおうと小山を登り始めたとき、
また同じ音が聞こえてきました。
二度目も、みんなで顔を見合わせました。
音が聞こえてきた方角には、本堂の方向、
つまり七堂華麗を極めた大寺院があった方角からです。
今は通りからも見えない森の中に、ひっそりと残る瑞巌寺跡。
あの栄華を知る人も、もうほとんどいない。
それでも、私たちはここへたどり着きました。
私には、ここに眠る人々が「よく来てくれた」と音で迎えてくれたように感じられました。
数百年の時を超えて、何かにつながったような気がしました。

